お互いがHAPPY HAPPYになる会話。
お互いがハッピーになる会話とは。
今日のブログですが、タイトルと裏腹に残半はだいぶシビアな内容になります。読まれる方は長文ですので、「飽き飽きする所まで」でお止めください。(笑)
実は最近、お友達から「人の相談に乗っていたら、とても疲れてしまった」という相談をかなりいただくようになりました。
相談に乗っていたら疲れてしまう。という方の原因はただ一つだけです。
「話しを聞いているだけのつもりが、何かの拍子に自分の事と絡めて考えてしまったり、あるいは、何故そんな話を自分にするんだろうか?という疑問符から、最終的に自分に矢印が向いてしまう状態」のどちらか、しかないと考えます。
ちなみに私もカウンセリングの資格を取った時に「グリーフ」をする事=悲しみへの共感
はマストだと教わりました。そして、否定せず相手のお話を聴く。ということも。
この「共感の度合い」というのが最も難しいことだと私は考えています。
例えば、
「人の間違いを親切心で正す人と、自分の間違いを指摘されたと思い込む人」の心理は似ている。
と私は考えています。私はそういう意味では平気でうそをつきます。嘘をつく。というと、ものすごく「悪」だと考える人がいるかと思いますが、私は全くそう思いません。
例えば私が前に言ったことを「間違いですよ」と訂正してきた人がいるとします。明らかに相手の事実が間違っていたとしても。「そうなんですね。」と受け入れるのが今の私です。
間違いを指摘したことにより、徳をする人はいない。と思うのです。
その人が間違いに気づかずそれを勘違いするのがかわいそうだから、言ってあげるべき。と思う方がいるかもしれませんが、
それって、「今の今」正してあげる必要があるのでしょうか?
相談する人の多くは、「話してすっきりする」という事。
これは、多くの方に言えると思います。(私も含めてです。)
ただ、私の場合には「話してすっきりする」という心理に気づいたのは本当につい最近で、同時に家族のありがたみ。というものも感じることになったのですが・・・。
先ほどの冒頭の話に戻りますと、「相談に乗っていて自分が疲れてしまう」という方は、相手のつらさを汲み取る必要は1ミリもない。
という考えにシフトするとよいかと思います。
これを冷たい。と考える方がいるとしたら、その方は100パーセント相手に何かを相談するときに「解決してもらうことを前提に自分が相手に話しているか」を今一度自分に置き換えて考えてみれば、一目瞭然かと思います。
このことを意識して相手の方とお話をすると、結果「お互いがハッピーになれる」ことに気づけると思っています。
一時期流行った「解放思考は非常に危険」
私の場合、一部の人たちから若干敵意を向けられるのですが、その理由はこういったことを書いてしまうからだと思います。
「女性起業家」という言葉が流行ったタイミングで、あやしい人たちが沢山増えました。
所謂スピリチュアル系の集まりですが、心を開放すれば、お金を引き寄せる。と言ったような「引き寄せ系ビジネス」の方たちです。
実は先ほどから一連のお話をしている内容に深くかかわってくるのですが、私の根本は、「最終的に努力は必須」という考えで、すべてを手放して好きなだけ欲しいものが手に入る。と言ったようなことは絶対にない。と思うのです。
そういう意味では私は癒し系とは程遠いと自負しています。雑草系です。
親からも、「周りは誰も助けてくれない」ということを幼稚園生から叩き込まれております。
今の時代(この書き方自体好みませんが)の中で、水面下でこういった「開放系ビジネス」は横行しています。ちなみに、私はカウンセラーとしての資格を持ち、活動をしようと思ってきたこともありますが、今はトレーナーに集中しています。
そんな私にもたま~~にカウンセリング依頼はありますが、メールを出しても返信がありません。でもわかっています。なぜなら、
私自身が相手が望むカウンセラーではないから。です。
でもこれは逆も言えます。
自分が抱えている悩みを根本から解決したい。と思う方と、「ただ単に甘えさせてくれる場所と人を探している」という人は根本的に全く違います。
私のクライエントさんは完全に前者の方です。
それは、こういうタイミングで顕著に表れます。
ここで、先ほどからお話している、「あやしいビジネスのターゲットになりやすい方はどちらでしょう?」
という問いに対しては、迷わず皆さん「後者」とお応えいただけると思います。
こういうビジネスの方は、知っています。「相手が何と言って欲しくて、何が欲しいか?」を。です。この場合、怪しいビジネスの方々はクライエントさんに臨むことは、高額な情報商材を買ってもらう事だけです。
それ以外全くありませんから、ぶっちゃけ誰でもよいのです。そこが明らかに私のスタンスに合いません。
長くなってしまいましたが、コロナ禍という折にいくつかの「派」というものが出来上がり、会話の中にその都度そういった区分が出来てきていますが、正直「どれでもよくない?」と思うのです。
他人に意見を合わせる必要もありませんし、自分の意見を主張する必要も無く、
むしろ「真ん中感覚」を育てることが必要なのでは?と思うのです。